
医師の労働環境は、2024年4月から施行された「医師の働き方改革」により、歴史的な転換期を迎えています。
しかし、長年培われた「献身の精神」という名の無償労働文化は、いまだに多くの病院現場に根深く残っています。
本稿では、医師が病院に対して残業代請求を行うための法理、具体的な手順、そして実務上の注意点について徹底的に解説します。
医師の残業代を巡る問題点

かつて病院経営者の間では、「医師は聖職であり、一般の労働者とは異なる」、「年俸制だから残業代は不要だ」といった論理が定着していました。
しかし、現代の法解釈において、これらは当然認められるものではありません。
最高裁の判例(医療法人社団康心会事件)によれば、以下の条件を満たさない限り、年俸制であっても別途残業代を支払う義務があります。
・判別可能性
基本給に当たる部分と、割増賃金(残業代)に当たる部分が、契約書や給与明細で明確に区別されていること
・差額精算の合意
あらかじめ設定された固定残業代を超えて労働した場合、その差額を支払うことが合意・実行されていること
これらを満たさない「込み込みの年俸制」は、法的には「すべて基本給」とみなされると考えられます。
つまり、その高額な基本給をベースに、さらに1.25倍の残業代を計算し直して請求できる可能性があります。
病院側の反論として、「宿直手当を数千円払っているから十分だ」という主張がありますが、労働基準監督署からの許可を得た「断続的労働」としての宿直でなければ、通常の労働時間に当たると考えられます。
たとえば、救急対応を頻繁に行っている病棟の呼び出しが随時ある通常の診療業務の延長であるこのような実態があれば、宿直時間すべてに対して時給換算の割増賃金が発生します。
労働時間の定義と「自己研鑽」の境界線

医師の残業代請求において、最大の争点となるのが「自己研鑽」です。
病院側は「勝手に残って勉強していただけだ」と主張する場合がありますが、法的な判断基準は明確です。
労働時間とみなされるケース判例・通達に基づき、以下の場合は「労働時間」に該当します。
・上司の指示による業務
症例報告の作成指示、学会発表の準備指示、若手への指導
・義務付けられた待機
救急当番として病院内に待機し、場所の自由がない状態
・不可欠な業務:
電子カルテの入力、サマリー作成、回診、カンファレンスへの出席
※「指示」には、明示的なものだけでなく「黙示の指示」も含まれます。
例えば、「明日までにこのカルテを整理しておいて」と言われれば、それは時間外労働の指示に該当します。
自己研鑽とみなされるケース
真に自由な意思に基づき、業務から完全に解放された状態で行う学習は、労働時間には含まれません。
しかし、多くの現場では「終わらない仕事」を「勉強」と称してサービス残業化させている実態があります。
残業代請求の具体的なステップ

残業代請求は、感情的な対立を避けつつ、淡々と「証拠」を積み上げることが重要です。
以下では、残業代請求をするために必要なステップについて解説いたします。
ステップ1:客観的証拠の収集
以下のデータを集めることが重要です。
・電子カルテのログ: ログイン・ログアウト、オーダー発行時刻の記録
・ICカード・タイムカード: 入退館の記録。
・Googleマップのタイムライン: 自身のスマホの位置情報履歴も補強証拠になります。
・PHSの着信履歴: 当直中の呼び出し頻度を証明します。
・指示書やメール: 上司からの業務依頼。
ステップ2:未払い金額の試算
医師の基礎時給は非常に高額です。
例えば、年俸1200万円(月額100万円)の医師の場合、1時間あたりの基礎賃金は約6000円前後になります。
残業代は「1時間あたりの基礎賃金×1.25」をベースに計算されるため、上記例の場合、 7500円が1時間あたりの残業代になります。
つまり、月に60時間の時間外労働(当直含む)があれば、月額45万円、3年間で約1,600万円以上の請求権が発生する計算になります。
ステップ3:通知書の送付(時効の中断)
残業代の時効は現在3年です。
何もしないままだと、1ヶ月経つごとに一番古い1ヶ月分の請求権が時効により消滅してしまいます。
そこで、弁護士名義で「内容証明郵便」を送り、時効を一時的にストップ(催告)させることが重要です。
ステップ4:交渉と法的手段
通知を出した後、まずは病院側と協議を行います。
病院側もレピュテーションリスク(評判)を恐れるため、この段階で和解が成立する場合もあります。
他方、交渉が決裂した場合は、労働審判を申し立てる方法があります。
労働審判は原則3回以内で終わるため、訴訟よりも迅速な解決が期待できます。
労働審判での結果に不満を持った場合、訴訟を申し立てる方法があります。
医師特有の注意点とリスクマネジメント

医師が残業代を請求する際、一般の会社員とは異なる特有のリスクが存在します。
具体的には、病院側が「管理監督者だから残業代は出ない」と主張してくる場合があります。
しかし、労働基準法上の管理監督者に該当するには、以下の高いハードルがあります。
・経営方針の決定に関与しているか。
・出退勤の時間を自分の裁量で決められるか。
・その地位にふさわしい、一般医師を圧倒する報酬を得ているか。
多くの「名ばかり管理職」医師は、これらを満たしていません。
特に「当直に入っている管理職」は、勤務実態からして管理監督者性を否定されやすい傾向にあります。
また、大学医局からの派遣医師の場合、病院に請求を行うことが医局内での立場に影響することを懸念される方が多いです。
そのようなケースの場合、「退職後」に未払残業代請求を行う方法がございます。
退職後であれば、直接の業務上の不利益は避けられます。
また、現在は「働き方改革」の追い風もあり、正当な権利行使を理解する医局・教授も増えている印象です。
弁護士が教える「勝てる証拠」の確保方法

病院側は往々にして「電子カルテのログは、単にログアウトし忘れただけだ」、「休憩を取っていたはずだ」という反論をしてくる場合があります。
これに対抗するために、以下の準備を推奨します。
・業務日誌の作成: 1日の流れを5分単位でメモした手帳。これが電子カルテのログと一致していれば、証拠としての信用性は飛躍的に高まります。
・休憩の記録: 逆に「休憩が取れなかったこと」を記録してください。
例えば、「12:00〜13:00 救急対応のため休憩なし」といった具体的なメモです。
・当直中の実態記録: 宿直許可がある場合でも、実際には「5回呼ばれて合計3時間対応した」といった記録があれば、その時間は宿直ではなく通常労働としてカウントされます。
2024年以降の展望【働き方改革は味方か】

2024年4月から、医師にも時間外労働の上限規制(原則年960時間、特例1860時間)が適用されました。
これにより、病院側は「労働時間の把握」が義務付けられました。
これは医師にとって大きなメリットです。
なぜなら、病院側が労働時間を把握していなければ、それ自体が労働基準法違反となる可能性があるからです。
これまで曖昧だった労働時間が、病院側の管理責任によって可視化されるため、残業代請求のハードルは以前よりも下がっています。
一方で、病院側は「研鑽」という名目での切り離しをより巧妙に行う可能性があります。
契約書の締結時や、自己研鑽の申請を求められた際は、その内容が実態と乖離していないか慎重に確認してください。
まとめ

ご自身のキャリアと権利を守るために医師の皆さんは、患者の命を救うために日々心身を削って働かれています。
その労働に対して、法に基づいた適正な対価を求めることは、決して強欲でもわがままでもありません。
むしろ、サービス残業が当たり前の組織では、優秀な医師から去っていき、結果としてその病院の医療レベルは低下します。
残業代請求は、病院に対して「適正な労務管理」を促すための健全なフィードバックでもあります。
まずは、一度専門家に相談することをお勧めします。
グリーンリーフ法律事務所は、設立以来35年以上の実績があり、18名の弁護士が所属する、埼玉県ではトップクラスの法律事務所です。 また、各分野について専門チームを設けており、ご依頼を受けた場合は、専門チームの弁護士が担当します。まずは、一度お気軽にご相談ください。





