
近年、日本企業においても人材の流動化が加速し、即戦力となる中途採用を積極的に行う企業が増加しています。
自社の優秀な人材が退職する際、顧客名簿や技術データなどの「営業秘密」を持ち出されるリスク(被害側となるリスク)については、多くの企業が退職時の誓約書取得やアクセス権限の抹消など、厳重な対策を講じるようになりました。
しかし、その一方で盲点となりやすいのが、「競合他社から転職者を受け入れる側(加害側に巻き込まれるリスク)」です。
もし、新たに採用した社員が、前職で培ったスキルや経験だけでなく、前職の「営業秘密」を私用PCやUSBメモリ、クラウドストレージなどを経由して自社に持ち込み、業務に転用してしまったらどうなるでしょうか。
このような他社の営業秘密が自社の業務に混ざり込んでしまう事態を、実務上「営業秘密のコンタミネーション(混入)」と呼びます。このコンタミネーションが発生した場合、転職者本人が罪に問われるだけでなく、転職者を受け入れた企業自身も、不正競争防止法違反として多額の損害賠償や事業停止の危機に直面するおそれがあります。
本コラムでは、中途採用に伴う営業秘密の混入リスクと、受入企業が講じるべき具体的な防御策(採用時の誓約書、警告書受領時のフォレンジック調査など)について、法的観点から詳しく解説します。
1. 転職者による「営業秘密のコンタミネーション」はなぜ起こるのか

中途採用者は、「新しい職場で早く成果を出したい」、「自分の価値を証明したい」という強い動機を持っている場合があります。
そのため、悪意なく(あるいは罪悪感を持たずに)、前職で使用していた顧客リスト、設計図面、マーケティング資料、ソースコードなどを「自分の成果物」や「仕事のツール」として持ち込んでしまうケースがあります。
しかし、これらが前職の企業において「秘密として管理されている(秘密管理性)」・「有用な情報である(有用性)」・「公に知られていない(非公知性)」という営業秘密の3要件(不正競争防止法第2条第6項)を満たす場合、その持ち出しと使用は明確な違法行為となります。
問題は、転職者が自社のネットワークにこれらのデータを保存したり、自社の営業活動でそのリストを使用したり、自社の製品開発にその技術を組み込んだりした瞬間、受入企業も「他社の営業秘密を不正に使用した」とみなされるリスクが発生するという点です。
2. 受入企業が問われる法的責任:民事・刑事上の重大リスク

転職者が前職の営業秘密を持ち込んだ場合、受入企業にはどのような法的責任が及ぶのでしょうか。
不正競争防止法では、直接情報を盗み出した者だけでなく、「その後にその情報を取得・使用した者(転得者)」に対しても厳しい規定を設けています。
① 不正競争防止法上の「悪意・重過失」による責任(第2条1項6号・9号)
受入企業が、転職者が持ち込んだ情報が「前職の営業秘密であること(または不正に持ち出されたものであること)」を知っていた場合(=悪意)、あるいは、少し注意すれば分かったはずなのに著しい不注意で気づかなかった場合(=重過失)、受入企業自身の行為が「不正競争」に該当します(同法第2条1項6号、または9号)。
実務上、この「重過失」の認定は非常に厄介です。
例えば、「入社直後の社員が、到底一人では短期間で作成できないような膨大かつ精緻な顧客リストを提出してきたのに、上司がその出所を確認せずに営業活動に使わせた」といった場合、企業側に重過失があったと認定される可能性が高くなります。
② 民事上のリスク(差止請求・損害賠償・廃棄請求)
企業側に悪意・重過失が認められると、前職の企業から以下の民事請求を受けることになります。
・差止請求(第3条): その営業秘密を使用した製品の製造・販売の停止、またはその顧客リストを用いた営業活動の停止。
・廃棄請求(第3条2項): 営業秘密を使用して作られた製品の廃棄や、設備の除却。
・損害賠償請求(第4条): 営業秘密の不正使用によって前職企業が被った損害の賠償。
もし、自社の主力製品のコア技術に転職者が持ち込んだ技術が混入(コンタミネーション)していた場合、製品の製造・販売が即座に差し止められ、回収・廃棄を余儀なくされる可能性があります。
③ 刑事上のリスク(両罰規定)
不正競争防止法には厳しい刑事罰が設けられており、本人が処罰(10年以下の懲役または2,000万円以下の罰金等)されるだけでなく、企業自身も「両罰規定(第22条)」によって処罰の対象となります。
3. 防御策①:採用時・入社時の「誓約書」による予防

このような致命的なコンタミネーションを防ぐための第一の防衛線は、採用・入社時のプロセスにあります。
「当社は他社の秘密を持ち込ませないよう、最大限の注意を払っていた」という事実(=自社に悪意や重過失がないことの証明)を残すことが不可欠です。
入社時において、単なる就業規則の遵守だけでなく、「第三者の営業秘密に関する誓約書」を単独で取得することが重要です。以下の要素を必ず盛り込むのがよろしいでしょう。
・秘密保持義務の確認: 転職者が前職と秘密保持契約(NDA)を結んでいること、および退職後もその義務を負っていることを自己申告させる。
・持ち込み・使用の禁止: 前職を含む第三者の営業秘密や知的財産を、有形・無形(データ・紙媒体・記憶など)を問わず当社に一切持ち込まないこと、および当社の業務において使用しないことを誓約させる。
・私物デバイスの利用制限: 前職で使用していた私用PC、USBメモリ、外付けHDD、個人のクラウドサービス(Google Drive、Dropboxなど)の業務持ち込み・接続を禁止する。
・違反時の処分・賠償の同意: 本誓約に違反して当社に損害を与えた場合、懲戒解雇を含む厳正な処分の対象となること、および当社が被った損害(前職企業からの賠償金等を含む)を賠償することに同意させる。
4. 防御策②:前職から「内容証明郵便(警告書)」が届いた場合の初動対応

どんなに予防策を講じても、前職の企業から突然「貴社に転職した〇〇氏が、当社の顧客名簿を不正に持ち出し、貴社の営業活動に使用している。直ちに使用を停止し、損害を賠償せよ」という内容証明郵便(警告書)が届くことがあります。
この際の「初動対応」を誤ると、証拠隠滅を疑われたり、損害が拡大したりして、企業の責任が重くなります。
① 絶対にやってはいけない対応
・無視する・放置する:「自社には関係ない」と放置すると、後に「警告を受けたにもかかわらず調査・停止を怠った」として、その時点からの「悪意による使用」が認定される可能性があります。
・本人にだけ確認して終わらせる:本人を呼び出し「持ち込んだのか?」と問い詰め、「やっていません」という言葉を鵜呑みにして「事実無根である」と回答してしまうのは最も危険です。本人が嘘をついている場合、企業としての管理責任を厳しく問われてしまいます。
・本人にデータを消去させる:パニックになった本人が慌ててデータを消去(証拠隠滅)してしまうと、後に裁判となった際、裁判所から「企業ぐるみで証拠隠滅を図った」という印象を持たれてしまう可能性があります。
② 正しい初動対応と「フォレンジック調査」の実施

前職からの警告書が届いた場合、直ちに以下のステップを踏む必要があります。
・ネットワークからの隔離と証拠保全:当該社員が使用している業務用PC、スマートフォン、社用アカウントへのアクセス権を直ちに停止(ロック)します。決して本人の手でPCを操作させてはいけません。
・専門家によるデジタル・フォレンジック調査の実施: 自社の情シス部門が安易にPCを調査のために起動・操作すると、ファイルのアクセス日時やログが上書きされ、証拠能力が失われる恐れがあります。直ちに外部の専門業者や弁護士と連携し、「デジタル・フォレンジック調査(電子機器の鑑識調査)」を実施します。
・弁護士を通じた前職企業への回答:フォレンジック調査と並行して、前職企業に対しては「現在、弁護士の指導のもと、外部専門家を交えて客観的な事実関係を厳正に調査中である。調査結果が出次第、誠意をもって回答する」旨の一次回答を行い、時間を確保するとともに、自社が隠蔽を図っていない姿勢を示すのが望ましいです。
もし調査の結果、実際にコンタミネーションが発生していた場合は、直ちにそのデータの使用を中止し、社内システムからの隔離・完全削除を行うとともに、前職企業との間で和解交渉(損害賠償や謝罪)を進めることになります。
ここで「自社も被害者である(社員に騙されていた)」という証拠(入社時の誓約書や指導記録)があれば、企業としての法的責任を大幅に軽減できる可能性があります。
まとめ

企業が成長する上で、優秀な中途人材の確保は不可欠です。しかし、それに伴う「営業秘密のコンタミネーション」は、企業の存続を揺るがす重大な法的リスクを孕んでいます。
「自社の秘密を守る」ことと同じレベルで、「他社の秘密を社内に入れない」ための仕組みづくりが重要です。
「うちの誓約書は一般的なテンプレートをそのまま使っている」「最近、競合他社からエース級の人材を引き抜いたが、法的なリスクがないか不安だ」といったお悩みがございましたら、手遅れになる前に、まず弁護士にご相談ください。
グリーンリーフ法律事務所は、設立以来35年の実績があり、18名の弁護士が所属する、埼玉県ではトップクラスの法律事務所です。
企業が直面する様々な法律問題については、各分野を専門に担当する弁護士が対応し、契約書レビューも特定の弁護士が行います。このような専門性により、企業法務において大きな強みを持っています。企業法務を得意とする法律事務所をお探しの場合、ぜひ、当事務所との顧問契約をご検討ください。
※ 本コラムの内容に関するご質問は、顧問会社様、アネット・Sネット・Jネット・保険ネット・Dネット・介護ネットの各会員様のみ受け付けております。
この記事を書いた弁護士:弁護士 安田伸一朗
不正競争防止法
弁護士法人グリーンリーフ法律事務所、埼玉弁護士会所属。令和4年の登録以来、営業秘密の漏洩や商品形態の模倣、混同惹起行為など、不正競争防止法が関わる複雑な紛争解決に注力。




