
塗装業や印刷業、化学工業、あるいは建設現場での防水・洗浄作業など、現代の産業において、化学物質や有機溶剤(トルエン、キシレン、ジクロロメタンなど)は欠かせないものとなっています。
しかし、これらの化学物質は、高い利便性をもつ一方で、人体に対して極めて有害な側面を併せ持っています。換気の悪い場所での作業による急性中毒で倒れてしまう事故はもちろん、長年にわたって少しずつ有害なガスや粉じんを吸い込み続けた(ばく露した)結果、数年から数十年後にがんや神経障害、呼吸器疾患といった重篤な病気を発症するケースも後を絶ちません。
こうした業務が原因で化学物質中毒や疾病に罹患した場合、被災者やそのご家族は、先の見えない闘病生活に直面し、大きな不安を抱えることになります。まずは労働基準監督署において労働災害(業務災害)としての認定を受けることが第一歩となり、認定が下りれば、治療費(療養補償給付)や休業期間中の補償(休業補償給付)、一定の障害が残った場合の年金や一時金(障害補償給付)などが国から支給されます。
しかし、ここで重要な事実があります。国の労災保険の給付には、被災者が負った精神的・肉体的な苦痛に対する「慰謝料」が一切含まれていません。また、病気によって将来得られるはずだった収入の減少にあたる逸失利益についても、労災保険の給付だけでは、本来受け取るべき適正な損害額には遠く及びません。
これらの「労災保険では足りない損害」を補填し、適正な補償を得るためには、事故や疾病の原因をつくった会社(雇用主や元請け企業)に対して、直接損害賠償(民事賠償)を請求する必要があります。本記事では、化学物質・有機溶剤による労災に特有の危険性や、会社に損害賠償を請求するための法的根拠、そして複雑な証拠集めを乗り越えるための弁護士の役割について、労働災害問題に精通した埼玉県大宮の弁護士が詳しく解説します。
化学物質・有機溶剤による疾病と労災認定の壁

機械に巻き込まれたり高所から転落したりといった目に見えるケガであれば、業務中の事故であることは明白です。しかし、化学物質のばく露による疾病の場合、「本当に仕事が原因で病気になったのか」を証明すること自体に、高いハードルが存在します。
長年の蓄積による深刻な健康被害
有機溶剤や特定化学物質のなかには、発がん性や生殖毒性、中枢神経への悪影響を及ぼすものが数多く存在します。記憶に新しいところでは、印刷工場において、印刷機のインクを洗浄する作業に従事していた多数の労働者が胆管がん(胆汁の通り道にできる悪性腫瘍)を発症した痛ましい事件があります。後の調査により、洗浄剤に含まれていた化学物質に長期間・高濃度でばく露したことが発症の原因であると医学的に推測され、労災認定へとつながりました。
労災認定と会社への損害賠償請求の違い
労働基準監督署による労災認定は、その化学物質を扱う業務に従事しており、それが原因で発病したという業務起因性・業務遂行性が証明できれば認められます。しかし、会社に対して慰謝料などの賠償金を請求するためには、それだけでは足りません。会社側に「化学物質の危険性を認識し、労働者が安全に働けるよう対策を講じる義務を怠った」という安全配慮義務違反(過失)があったことを、被災者側で具体的に主張・立証しなければならないのです。
化学物質ばく露における会社の「安全配慮義務違反」のポイント

会社は、労働安全衛生法や有機溶剤中毒予防規則、特定化学物質障害予防規則といった法令に基づき、労働者の健康障害を防止するためのさまざまな措置を講じる義務を負っています。これらの義務が果たされていなかった場合、会社の明確な過失として、損害賠償責任が問われることになります。
①局所排気装置や密閉設備の不備
有害なガスや蒸気が発生する屋内作業場では、労働者がそれを吸い込まないように、発生源を密閉する設備や、局所排気装置・プッシュプル型換気装置といった換気設備を設置し、適切に稼働させることが法的に義務付けられています。「換気扇が家庭用のもので吸い込みが弱かった」「費用を惜しんで局所排気装置を設置していなかった」「地下室など風通しの悪い密室で作業をさせていた」といった実態があれば、重大な安全配慮義務違反となります。
②SDS(安全データシート)の確認とリスクアセスメントの不備
化学物質を譲渡・提供するメーカーなどは、その物質の危険性や有害性、取扱い上の注意などを記載したSDS(安全データシート)を交付することが義務付けられています。会社側は、このSDSを確認し、自社の作業環境においてどの程度のばく露リスクがあるかを評価するリスクアセスメントを実施したうえで、その結果に基づいて適切な防護措置を講じ、労働者に危険性を周知する義務があります。SDSを事務所の棚にしまったままにして、現場の作業員に化学物質の本当の危険性をまったく伝えていなかったというケースは、責任追及の大きな焦点となります。
③有効な保護具(防毒マスク等)の支給・着用指導の欠如
換気設備だけでは防ぎきれない場合や、設備の設置が困難な作業(タンク内の清掃など)では、作業環境に応じた有効な呼吸用保護具(防毒マスクや送気マスクなど)や不浸透性の保護衣を労働者に支給し、確実に使用させなければなりません。「普通の不織布マスクしか配られていなかった」「防毒マスクの吸収缶(フィルター)の交換時期を指導しておらず、効果が切れたものを使わせていた」といった状況は、会社の安全管理体制の欠如を示しています。
④特殊健康診断の未実施
有機溶剤や特定化学物質を取り扱う労働者に対しては、一般的な定期健康診断に加えて、その物質特有の健康被害を早期に発見するための特殊健康診断を、一定期間ごとに実施する義務があります。この健診を怠っていたり、異常の所見があったにもかかわらず配置転換などの適切な事後措置をとらずに作業を続けさせていたりした場合、会社の責任は免れません。
会社への賠償金請求に向けた「証拠集め」のポイント

会社に安全配慮義務違反を追及し、適正な賠償金を勝ち取るためには、何より客観的な証拠を揃えることが重要です。病気の発症から時間が経過していることも多く、証拠集めは困難を伴いますが、次のような資料が重要な手がかりとなります。
作業実態・環境に関する証拠
使用していた化学物質のSDSやラベルの写真は、どのような成分が含まれていたかを特定するための最重要資料です。あわせて、法律で義務付けられている作業環境測定(作業場の空気中の有害物質濃度の測定)の記録や、換気設備がなかったこと・作業場が密閉空間であったことを示す現場の写真や見取り図も有力な証拠になります。さらに、「いつもシンナーの臭いが充満して目がチカチカしていた」「防毒マスクは息苦しいから外すよう先輩に言われていた」といった、現場の日常的なずさんな管理体制を示す同僚の証言(陳述書)も非常に有効です。
健康状態・医学に関する証拠
過去の健診で異常が指摘されていなかったかを確認できる特殊健康診断の個人票や、どのような症状がいつから現れ、医師がどのように診断したかがわかる医療機関の診断書・カルテは、発症の経過や因果関係を裏付けるうえで重要です。
会社の管理体制に関する証拠
会社が化学物質の危険性について対策を話し合っていたか、労働者に教育を行っていたかを確認できる安全衛生委員会の議事録や安全教育の記録も手がかりとなります。これらの証拠の多くは会社側に偏って保管されており、個人で開示を求めても「すでに廃棄した」「見せられない」と拒否されることが少なくありません。だからこそ、後述する弁護士の法的な権限が必要になります。
化学物質による労災賠償請求を弁護士に依頼すべき理由

化学物質や有機溶剤による健康被害について、被災者ご本人やご家族が単独で会社と交渉し、慰謝料などの適正な賠償金を得ることは、難易度が高いといわざるを得ません。労働災害問題に強い弁護士に依頼すべき理由を説明します。
因果関係や過失相殺に関する会社側の反論に対抗する
会社側(顧問弁護士や保険会社)は、賠償金の支払いを免れるために、「発病の原因は化学物質ではなく本人の喫煙や生活習慣だ」と因果関係を否定したり、「防毒マスクを外して作業していた本人が悪い」と過失相殺を主張したりするのが通例です。弁護士が代理人となれば、医学的な文献や過去の裁判例、そして「労働安全衛生法の本質は、労働者が多少のミスをしても健康被害が生じないような設備的対策を講じることにある」という法的根拠に基づき、これらの不当な反論を論理的に封じ込めます。
「弁護士会照会」や「証拠保全」による調査力
会社が証拠を出さない場合、弁護士は弁護士会照会という法的な権限を用いて、官公庁や医療機関に資料の開示を求めることができます。また、会社が都合の悪い記録を隠蔽・改ざんするおそれがある場合には、裁判所を通じた証拠保全手続きにより、作業環境のデータや社内資料を確保することも可能です。証拠が乏しい状態からでも、弁護士の調査力によって活路を見いだすことができます。
「裁判基準」による適正な賠償金(慰謝料・逸失利益)の獲得
がんや重度の神経障害などによって重篤な後遺障害が残ったり、最悪の場合に亡くなられたりしたケースでは、慰謝料と将来の逸失利益を合わせると、賠償金が数千万円から1億円以上にのぼることもあります。会社側が任意で提示してくる見舞金や示談金は、法的に認められる正当な金額(裁判基準・いわゆる赤本基準)から大きくかけ離れた、不当に低い金額であることがほとんどです。弁護士が裁判基準を用いて交渉・訴訟を行うことで、被害に見合った適正な補償を勝ち取ることができます。
おわりに

化学物質や有機溶剤による労働災害は、「仕事だから仕方ない」「自分の体質の問題かもしれない」と、被災者ご自身が会社の責任に気づかないまま泣き寝入りしてしまっているケースが非常に多い分野です。しかし、会社が法令で定められた安全対策を怠り、その結果として健康と人生が損なわれたのであれば、適正な賠償金を受け取ることは当然の権利です。
「会社から提示された見舞金で示談してよいのか」「昔の職場の化学物質が原因で病気になったかもしれない」「証拠が手元にない」とお悩みの方は、一人で抱え込まず、私たちにご相談ください。治療に専念し、ご自身やご家族のこれからの生活を守るため、正当な賠償金の獲得に向けて全力でサポートいたします。
グリーンリーフ法律事務所は、設立以来35年の実績があり、18名の弁護士が所属する、埼玉県ではトップクラスの法律事務所です。
また、各分野について専門チームを設けており、専門チームの弁護士は、各担当分野について知識・経験とも豊富で、大きな強みを持っています。まずは、一度お気軽にご相談ください。
この記事を書いた弁護士:弁護士 遠藤吏恭
労働災害(労災)
弁護士登録後、労災認定申請から損害賠償請求まで幅広く対応。法テラス民事法律扶助審査委員として経済的に困難な被災労働者の支援にも積極的に携わる。不当要求防止責任者講習の講師経験を活かした毅然とした交渉力で、使用者側との厳しい交渉にも臆せず対応。中央大学法科大学院・埼玉工業大学講師も務める。






